昭和49年05月08日 朝の御理解
御理解 第42節
「これ程信心するのに、どうしてこう云う事が出来るであろうかと思えば、信心はもう止まっておる。是はまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられる。」
そこからおかげが受けられる、そこからのおかげを只おかげ止めずに、そこからあの時にお徳を受けたんだなあ、あの時に力を受けたんだなあと云う、所まで高めていかなければいけないと思うんですね。ただ難儀なことが起って来たら、是はまだ自分の信心が足りんからと、一生懸命に信心をする。ですからそう云う一生懸命の信心をさしてもらうから、必ずおかげを受けますよね、だからその只一生懸命の信心をしたからおかげを受けたと云うだけではいけん。
あの時に御徳を受けたと私は、まあ合楽で朝参りをなさる方ならば、これ程信心するのにどうしてこんなことが起って来るだろうかなどと云う事は、まあ思わないと仮定してね、ましてその先のところを、一つ身に付けて行きたいと思うんです。これはあの私自身の事で言える事ですけれども、あの言うなら難儀な問題と云うか、目の前が真暗になる様な事が起った時に、これはまだ信心が足りぬからと、言う風なものもありましたでしょうけれども何か心の中にです。
いやあ神様はこの後にどう云う力を下さるだろうかと云うの方が、まあ楽しい感じでしたね。ですから私のはもうおかげと同時に、その都度都度に力を受けてきた。まあお徳と云う言葉では足らんかもしれんけれども、お徳を受けて来た様に思います。ですからその頂き方がですね、この頃からこのチャンスとか、言う事を頂いたんですけれども、おかげを頂くチャンスとか、お徳を受けるチャンスて言った様な物は滅多にないで。特にお徳を受けるチャンスとか言った様な物は滅多に無いです。
ですからそのお徳を受ける程しのチャンスを与えて頂いた時にです。ただおかげで留まるかお徳を受けるかと言う事です。ですからねもう時機到来、もう時節がきたと思うてそれを勇んだ心で、有難い心で受けて行く事です。是がお徳を受けるです。そこからのおかげと云う。そこからのお徳が受けられる。例えば今久留米の古賀さん達が夫婦で毎朝、ああして熱心に御参りになる、以前はああ云う熱心さは全然無かったです。まあ信心なーていげい程々にしとかにゃちゅう位な感じにしか見えなかったです。
所がどうですか、お家が丸焼になったと同時に信心が、しかも夫婦の信心が溌剌として来た。私はもう只、前より立派な家が出来たなどと云った様なおかげでは詰らんと思います。いや神様は又それを願って御座ると云う感じがするんです。是で一つ力を受けさせにゃ、是で一つお徳を受けさせにゃと云うのがですね、その起きて来る問題がです。実に深刻な問題が起きて来るんです。その家が焼けたと云うだけではなくてですよ、もう真剣にもうしら真剣に、夫婦の者がすがらなければ、願わなければおられない。
「是はお母さん参るだけでいかんぞ。本気でこの際改まらなでけんぞ、研かなでけんぞ」と言った様な感じなんです。ああして忙しい御用を頂いておられるのですから、本当は朝参りやら、本当は続けられんとが当たり前位な御用を頂いておられますけれども、言うならあの火事になった丸焼になったを境に夫婦の者の信心が生き生きとして来た。そしてそこん所にです「是はお母さんお徳を受けるチャンスぞ」と云う風に気付いた時に、そこからおかげの世界じゃなくて徳の世界が、私は開けて来ると思うね。
そこからのおかげではなくて、そこからのお徳はぁあん時に力を受けたなと思う様なおかげを頂いて貰いたいとね皆さん。苦しい悩みがあったりもうそれこそ苦しまぎれに、ただ眠たいけれどもきついけれども、それこそ銀行に金借りっごたる気持ちで御参りして来るのとです。同じ銀行行きでもお金を貯めに行く、貯金に行く様な生き生きとした心でなからなければおかげは受けられません。勿論お徳にもなりません。
そこで例えばそう云うお徳を受けられる程しのチャンスと云う物がです。例えば古賀さんの例でするなら、それこそ合楽の信心が始まって二十数年の間に、信者の中で丸焼になったと云うのは初めてだった。その月にはあの「あちら何と言われたかな。佐田さんあの丸焼けになったとこ。ああ後藤さんああ、あの人は何処ですか矢部ですかね」矢部の後藤さんですのお宅が丸焼けになった。一月前だった。ただごとじゃない。
ですから後藤さんのお宅の場合は、何かよりおかげになると云う感じがしますね。おかげが現われる。と云う感じがします。古賀さんの場合には、このチャンスに徳を受けさせたいと云う感じを、実感します私はお取次しながら。そう云うお徳を受けさして頂けれる様な、お膳立てが出来とるです。火事で丸焼になったあの問題この問題と、次々起きて来る問題が、(笑)もう普通起って来ないような問題が、言うならば泣きっ面に蜂と云う様な問題が起きて来るんです。
ですからいかに神様が力を付けて下さろうとしておるか、また本人たちもそこん所の自覚の下に、そうした朝参りが以来出来る様になったと云う事も言えるです。もうですからもうその時期と云うのは、そのチャンスと云うのは又ないのですからね、本当に大事に有難く頂かにゃいかんです。そこでですそう云う時期を与えられチャンスを与えられると云うのですけれども、私共が有難い意味においてです是は。チャンスを言うならば作ると申しましょうかね、おかげを頂くチャンスを作ると云う生き方があるです。
昨日私は古ういもう以前の物ですけども放送の、放送講話集あってますねえ放送が、その中に「人を拝む」と云う事をある方が話しておられるのに、松下電器の松下幸之介さんですかの話が出てました。その人が松下さんが書かれたご本の中に、織田信長と明智光秀と羽柴筑前ですね、後の豊臣秀吉の事が書いてあったと話しておられます。皆さんも御承知のように織田信長という人は、非常に頭の切れる人であると同時に短気であった。もう自分がこうと思った事は、もうそれをやって終えなければ済まんと云う。
それこそ[泣かぬなら殺してしまえほととぎす]と云う様な性格の人であった。ですから、ああ云う戦乱の時代に、ああ云う位な気迫と、その所謂ワンマン的な生き方じゃなからなければ、とても天下なんか取れるもんじゃあないと偉くそれに感心したのが秀吉だったそうです。所が光秀と云う人は、非常に頭も良いが文武両道に優れたいわゆる武将であった。所が非常に神経質である。それは主人の事を思うてからであるけども、「あなたの様な生き方では、あなたの様な生き方ではいけません。
人から恨みを買います。そこは押さえないけません」と言うていつうも忠告したと云う。ですから「俺の云う事を聞かん」と云うて自分から外して行った、信長が。秀吉の場合は、その調子を取るとか、何と言うですかおだてると云った様な意味ではなくてですね、その信長の素晴らしさに着眼したと云う訳です。是でなかなければ今の時代にはやっていけん。こう云う生き方が本当だと云う風に帰依したもんですから、心から帰依し取る何かに現れてくるから、いわば「秀吉、秀吉」と重く取り扱った訳ですね。
と云う様にその自分の事を言うては、まあおかしいですけれどもと、前置をしてその松下さんが言っておられる事です。「更に松下さんは私自身の事を申し上げると、おかしいのですがと前置して本当は私は身体も弱いし学問もありませず、特別な知恵才覚と云う物を持っておりませんが幸いにして、今日があると云う事は社員の長所に、眼を付けたことです。だから人もいやすく人も働きやすい、それが私の今日の一つの力になっていると思います」と云う事です。
一切を有難い有難いと、受けたと云う事なんです。是は確かにどんな人でもですね、素晴らしい人の真似できぬ素晴らしさを持っているです。だからもう例えば使用人なら使用人の中に、その長所を見いだしてですね、その長所を褒めて行くと云うか、褒めなくてもその長所を引っ張り出してやる。それでなしにジロジロ見てから、その使用人の悪るかとこばっかり、垢ばっかり探すごとあるは、明智光秀の生き方です。
松下さんが私が今日の成功があるのは、私がその社員のですね良い所だけに、目を付けたと云う事だと言っております。是は私素晴らしい事だと思います。家庭の中でもそうです。子供の悪るかとこばっかり見らずに、この子はこんな素晴らしい所があると云う、そこだけを見て、神様にお礼を申し上げて行く様な心にならなければ、私は本当の事にならないのではないかとそれがです。私はね必ず言わば無いチャンスを作る事になると思うです。是はこの生き方は。
是は例えばその難儀、信心するのに此の様な事事が起きて来た。どうして此の様な事がと言うような、と言うのは私に言わせると、「お徳を受けるチャンスだ」と言う。ですからどうして所じゃない、神様がこうして力を与えて下さる。徳を与えて下さるんだと、もう喜び勇んで、それは苦しいんですそん時は。けれども心ん中がなんかニヤっとしたるごたる喜びがあるわけです。
間違いないお徳が受けられるチャンスを与えて頂いたんだと。だからそういう意味の、言わばチャンスではなくて、後に申したのは、私共がチャンスを作って行くと云う事。それは一切を日頃の言葉で言うと「この方の道は有難い有難いで開けた道だから、有難いでは苦労はさせん」と仰るな言い方ですけれども、そんなら具体的に言うとどう言う事かと言うと、まず対人間関係の場合です。もうどんなにつまらない人、つまらない馬鹿と言われるような人でもです。
人の真似の出来ん様なものを持ってるはずです。是は神様が与えてあるです。私がおかげを受けたのも何かそんな感じが致します。松下さんじゃないけれども「あの信者さんが、こうのどうの」と皆が言うけども「うぅあの人はあそこ、あの人はあそこが良かとこじゃから」と言うて、私はたしかに見てきました。それは自分の気分に合うとか気分に合わない色々ありますよ。けれども私はそういう場合その人も助からなければならない、私も助からなければなりませんから、その人の素晴らしいとこを見てきた。
ですから、その人自身も素晴らしい所を愈々発揮して行かれる様に思います。それはおかげを頂くです、有難いチャンスがですね、自分で作って行く事になります。今日は四十二節のそれには、少しそれた様な感じです。言うならば信心のまだ未熟な人、信心しおっても雨もあれば嵐もあります。だから「どうして信心しおって、こげな雨があるじゃろか、嵐があるじゃろか」と言うて、もう信心したってやっぱり駄目ですばいと言う様な人に対する御理解ですね。
けどもまあ皆さん、ここにはそう云う人達はまあおられないと仮定してです。むしろそこから一心の信心が出来て行く人達、いやそれ以上にです。お徳を頂く言わばチャンスを神様が与えて下さったんだと、喜び勇んでそこの所を次の信心に飛躍して行く、一段と信心を進めて行けば、そこからおかげが受けられると言う所をです。そこからお徳が受けられるんだと言う所を、今日は聞いて頂いたんですね。
どうぞ。